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あかんデザイン 20

某所の手洗いにて。

スマホを見ながら歩いていた女性が間違って男性側に入り、あわてて出てきた。実はここはしょっちゅう男女が逆に入ってしまうトイレなのである。

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二つ並んだトイレのうち、左側が男性用なのだが、壁から出ているプレートを見ると、あたかも左側が女性用のように錯覚してしまう。ご丁寧に裏表どちらも左側に女性のマークがあるからだ。

サインの並びによって、、いわゆるシグニフィア(signifire)というか、認知が逆方向に誘導されてしまうわけだ。


「男女」と「左右」は身体的な認知による関係性がないので、サインが重要となる。

同様の問題には以前にも書いた「エレベーターの開閉ボタン問題」がある。

ついでの話題だが、最近古くなった風呂場のカランを変えた。おかげで水道とシャワーの切り替えを間違えることが無くなった。


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古いものはダイヤル式で、正面から見て右にひねるか左にひねるかで切り替わっていた。カランとシャワーに左右の関係性が当てはまらないからしょっちゅう間違えて水を浴びることになっていたのである(;^_^A
今回のは上に回すか下に回すかで、上だとシャワーという関係性が感覚的に分かりやすい。人はほんの少しのことで行動が誘導されるのだねえ。






パッケージが秀逸なピンチ

ま、なんの変哲もない物干し用のピンチなんですけどね。


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空目したんですわ。

これは狙ってデザインしたとしたらなかなかのモンです。

実際はこんな風に肩車状態で使うことなどまあ、ないので、ちっともおもしろくないのでした(泣)





「み る!みえる?」展に行ってきた

先月紹介した「み る!みえる?」展にぎりぎりで行ってきました。


油断していたら最終日に!気がつくのが遅かったので時間も既に午後。
しかし、地図を見ると以外と近いかも?と車で出発。

カーナビがないのでスマフォのgoogleマップのナビを頼りに行ったら車の通れない道に案内されて困惑。

よく見るとナビのアイコンが「人」になっていました。これは歩いて通れる道を示しているということか・・・。しかし、こんな距離を歩いてくる人がいるわけないだろー!と突っ込みを入れたり。

気を取り直して設定を「車」に変更し、再度、ナビの通りに進みました。すると、どんどん一方通行ばかりの細い道に案内され、とうとう行き止まりに!

確かに、到着しましたよ。千葉県立現代産業科学館の真裏。でも、延々とフェンスで囲われていて入れない・・・。なんという罠。

仕方なく車を止めて地図を確認していると、他にも車が2台入ってきて立ち往生。
どーやら、彼らもgoogle先生にハメられたようです(笑)

そんなこんなでなんとか到着したときには閉館まであと1時間になっていました。
ま、展示は小さかったので十分に見られましたが。



会場ではまず、有名な「北岡明佳」氏の動いて見える錯視のパネル展示に迎えられました。

画像はこちらにたくさんあるので省略。見たことのある人も多いでしょう。

これはすでにお馴染みで、実際、サイズにはあまり関係なく相変わらずウネウネ動いて見えました。

街という環境の中で何も考えず、これを描いたら、交通事故が増えてしまうかもしれません。
しかし逆に応用すれば交通事故防止に役立つかもしれないと。

以前、ある錯視を交通事故防止に応用するアイデアを考えたら、しばらくして、実際にそれに近いものが実行されたことがあります。動いて見える錯視によっても、一旦停止などを促すことができるかもしれません。


実際、会場には渋滞緩和のために錯視を応用するアイデアが紹介されていました。


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画面右の一見水平な道は、実はゆるやかな上り坂になっています。
高速道路などでこのような場所があると、中央の下り坂との関係でさらに下りが続いているように見えるということです。いわゆる「おばけ坂」の錯視といわれるもの。

このような場所では運転手は下りと思っているからアクセルを緩めますが、実際には上り坂なのでスピードが落ち、結果として渋滞が発生するとのことです。

これを緩和するために、壁に実際とは異なる水平線を描き、上り坂を上り坂として認識させようというもの。

明治大学 友枝明保氏の研究です。


さて、次は不可能立体。

いずれも、厚紙でできています。


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実際に両眼で見ると、騙されにくいですが、カメラを通したり、片目をつぶって見るときちんと錯覚?できます。

いずれも明治大学 杉原厚吉氏の作。

詳細は「脳が鍛えられる「立体だまし絵」づくり へんな立体 杉原厚吉著 誠文堂新光社」などをどうぞ。



会場には同氏による2010年の「世界錯覚コンテスト」で優勝した作品「反重力4方向すべり台」も展示してありました。

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これは動画を見ないと分かりませんね。







次、関西大学 ノーマン・D・クック氏による有名な逆遠近錯視。

これを実際に見るのは2回目ですが、本物はやはりすごいです。テレビでタレントさんが
驚いているのを見ると大げさに見えますが、はじめて実物を見るとマジでビックリ仰天します。


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この現象を応用したのが私の逆遠近錯視ペーパークラフトです。




次、LEDのフラッシュによる残像現象


壁に1mほどの2本の光るスリットが・・・

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顔を横に振ると、歩いている人が現れます。これだけ大きなものは初めて見ました。

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このネタは古くからあり、通常は空間にテキストが表示されるものが多いです。

「LED 残像 文字」



最近ではiphonで遊べるアプリもあるようです。

超カッコイイ! 空中に文字が浮かび上がるiPhoneのアプリ(GIZMODO)



最後にNTTが開設している錯視サイトをご紹介。

ここには膨大な量の錯視が集められています。フラッシュものなど、ネットならではで必見です。


「イリュージョンフォーラム」


この他、千葉県立現代産業科学館には科学技術を応用した子供向けの常設展示もありました。
ネタはやや古いものが多いという印象でしたが、小学生には楽しめる内容になっていると思います。



ゆでガエル

前回に続いてリスクマネジメントに関する話。

人が危険に対して適切に対応できないことを説明するときによく引き合いに出されるものに「ゆでガエルの理論」とか「ゆでガエル現象」と言われるものがある。

即ち、カエルをいきなり熱いお湯に入れると、必死になって逃げ出そうとするが、最初に水に入れてから、ゆっくり水を沸かしていくと、温度の変化に気がつかず、危険な領域に入ったときには既に体力が無くなって逃げ出すことができなくなり、死んでしまうというヤツ。

もちろん、生物学的にこれが真実なことかどうかは知らないし、やれ都市伝説だ、と目くじら立てる向きもあるが、ビジネスなどで、タイムリーに状況の変化に対応しなければいけない、ということを諭す例えとしてはよく出来ているとも言える。


この現象をあながち笑えないのは、私が実際にカエルに関する似たような状況を経験しているからだ。(この前はスズメで今回はカエルかい!)と言っても、カエルを実際に鍋で煮たわけではない(笑)。

以前、田んぼの直ぐ近くに住んでいたことがあるのだ。その住宅は小さな駐車場を挟んですぐ前が田んぼだった。ここにはカエルがたくさん生息していて、よく、やかましいぐらいに鳴いたりしていた。
それが、雨が降ると、よろこんで?たくさん地上に上がってくるのね(笑)。住宅の階段やら壁にたくさんくっつくので踏まないように注意しなければならなかった。

で、ある日、住宅の壁に干からびたカエルが何匹もくっついていることに気付いたのだ。

どういう理由かは知らないが、とにかく雨が降ってそこら辺が濡れると、カエルたちは地上に上がってくる。やがて、天気になって乾いてくれば、水のある田んぼに戻ればいいはずだ。もちろん、その過程で、方向を失ったりして死んでしまう個体も多いだろう。しかしながら、壁に貼り付いたまま死んでしまうというのは一体どういうことだろう?何も退避しようとした痕跡がないのが不思議である。

つまり、生物学的になんらかの説明が付くのかも知れないけれど、個人の経験からいうと、「ゆでガエル」と同様の現象はあって、現に不思議だが何もしないで干からびてしまう固体がいるのだ。


さて、本題に戻ると、このことは現状に対応できない「愚かさ」を戒める警句として取り沙汰されるわけだが、どうも「愚か」だからよく気をつけて現状を認識せよ、というような精神論ではカバーできない問題であることに気が付いた。

最近たまに日本テレビ系列の「世界一受けたい授業」を見るのだが、ここで脳科学者の「茂木健一郎」氏がプレゼンするコンテンツに「aha!(アハ)ムービー」というのがある。10秒ほどの間に、画面に提示された写真が、どこか一部が改変された別の写真にゆっくりと置き換わっていくものだが、ほんとに、どこが変化したのか分からなかったりするのである。
しかも前もって「変化する」と知っていて、注意を凝らして見ているのに分からないのだ。

つまりこれは「ゆでガエル」の警句のように、「周りを取り巻く環境は常に変化しているということを、人はついつい忘れ勝ちになる・・・」から気が付かないのではなく、そのことを捉えようと集中していてさえも、変化の度合いが識閾値以下であれば、気が付こうにも気が付けないということを意味している。

このことをよく示す具体的な例として、広い田んぼ道の交差点での自動車の衝突事故が挙げられる。
一見なんの障害物もない見晴らしのよい田んぼ道の交差点で自動車同士が衝突するという事故がよく起こるということをJAFだかの記事で読んだことがある。

実に不思議なことに運転手は両者ともに相手に気が付かなかったという。なぜか?

つまりこういうことだ。二つの自動車がお互いに交差点に向かってほぼ等速で進行する場合、お互いは常に左右どちらかの45度の角度に位置することになる。つまり視覚的には、見かけ上、動きがなく、だんだん大きくなる、というような映像が構成されるわけだ。
これって、全く「アハムービー」と同じじゃないか。つまりこの事故は単純に「不注意」では済ませられない問題を孕んでいることになる。


では、実際にこのアハムービーの変化に気が付くためにはどうすればよいか。より「注意して見なさい」ということでは解決しない。即ち、例えば、画面を4分割して、今回のトライでは右上を、次回には左上を・・・というようなシステム的な対応が必用となる。

そしてこれを、実際の社会やビジネス等の場面に置き換えれば、「次回のトライ」が許されるかどうかは別の話となってくる。なので、例えば、常に「異なった視点」から注意する複数の担当者、センサー、観察方法等が必要となってくる、というようなことが考えられるだろう。


さて、「地球温暖化」の問題に関して言えば、産業革命以来、吐き出されつづけてきた二酸化炭素の量をたしかに長い間、誰も気に留めなかった。しかし、年間の平均気温、異常気象等の変化の数値はすでに鈍感な人間の識閾値をも越えている。つまり、既に我々人間はこのことについて気が付いているといっていい。もう「ゆでガエル」の部分は過ぎてしまったのだ。「次回のトライ」などないことは言うまでも無い。

それでも尚、迅速に適切な対策が採られていないとすれば、それは前回書いた「雀合の衆」マターの方に入っているからだろう。「不都合な真実」を認めようとする識閾値は残念ながらとんでもなく高いのだ。

我々は巨大な鍋に浸かった無数のカエルだったのだ。

※参照

『見通しの良い交差点における出会い頭事故対策効果に関する実地研究』


ハリ・セルダンの苦笑い

天才的な社会心理学者である『ハリ・セルダン』は母集団が充分に大きければ、人間の行動、即ち未来の予測が数学的に可能であると説いた。
彼の深遠な理論は余人の理解の及ぶところではないが、「あるある」の放送によって、スーパーの店頭から納豆が消え、ヤラセがバレて納豆業者悲鳴、番組終了までを予測するのは容易なことだったに違いない(笑)。

「烏合の衆」とはよく言ったもので、ある刺激によって共通の行動をとる「無思考刺激反応型集団」こそ「マス」と呼ばれるものの正体である。

ま、自ら流行ものに飛びつき、愚かしさを楽しむという姿勢もありだと思うので、納豆ダイエットに挑んだ人たちも、それほど怒っていないのではないかな。

だいたいこの手の番組は話半分どころか十分の一程度で楽しんでいればよいのだと思う。聴きなれない新しい薬や食材ならまだしも、今回は「納豆」である。
いったい日本人は何百年食ってきたんだよ!?納豆を食べて痩せるなら、経験「知」として伝承されていてしかるべきであろう。メディアのヤラセに騙されたのを怒る前に、日常的な肌感覚が劣化していることを自覚すべきだろう。


思い出したのはもう、随分と前に「洗脳」系の民間企業研修に参加したときのことだ。

2日に渡っての胡散臭い研修の終了際になって、主催会社の社長が現れた。
スタッフ曰く、「みなさんはとても幸運です!忙しい社長がスケジュールの合間を縫って馳せ参じてくださいました!こんなことってめったにないんです!!」
さて、その後、涙を流さんばかりに大喜びの参加者たちと社長が一人一人「ハグ」していくことと相成った。

見知らぬオッサンとハグしなければならない己の不運を呪いながら、無邪気によろこぶ参加者たちにあきれていたものだ。

どう考えたってこのオッサンはいつも来るに決まっているではないか。当然スタッフ込みのヤラセなのであるが、参加者の誰でもが思う、「自分達は、幸運な選ばれた存在でありたい」という願望に付け込んで信じさせるわけだ。

テレビの健康番組もそうで、見てよかった「お得な情報」というわけである。
本当は「お得」なのは薬なりを売っている業者とテレビ局と出演して適当なことを言っているタレントだけで、視聴者では決して無い。

私は一度も見たことはないが、いつも醜悪な顔とだみ声で画面を満たしている某インチキ占い師が高視聴率を取っているらしい。作る方も見る方もヤラセ合意でのことと思うが、分かっていて楽しんでいるつもりがいつの間にか計算可能なマスの中に埋没しているのだということにも気が付かなくなっているのではないだろうか。

もう一つ共通項のあるネタを。

これも随分と前のことであるが、マジシャンの「カッパーフィールド」の公演を観にいったことがある。

その中でこういう出し物があった。

当日、その場で見ている観客の中から一人を選んで舞台に上げ、カッパーフィールドと2人でハワイにテレポートし、その場で現地の人にサインを貰って再び戻ってくるというものだ。

何千人も観客がいる広い会場に、ビーチボールが投げられ、ボールは次々と観客の手によってあちこちにたらい回しされる。音楽が停まったとき、それを手にしていた青年が舞台に上げられた。

青年は偶然にもアメリカ人だったが、カッパーフィールドのマジックで2人は舞台から消失、ハワイからの同時中継をしている画面に現れ、現地でサインを貰って再び帰ってくる・・・

だいたい日本公演だというのに「仕込み」がアメリカ人だというのがもう、日本人をナメているわけね。
帰宅してビデオをチェックしたらラスベガスの公演でも同じ青年が舞台に上がっていた(笑)。

つまり、このマジックの「要諦」は舞台から消えるところでも、ハワイに現れるところでもなく、広い開場の中でどうやってその青年にビーチボールを渡すか、というその一点に尽きるわけだ。

さて、その種は・・・・

知りませんよ、もちろん。マジシャンじゃないし(笑)。
しかし、論理的に考えれば、答えは一つしかない。
さーて、偶然を計算可能とする要因は・・・ハリ・セルダン先生に聞いてみよう。


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