「あるある」の件で、「烏合の衆」という言葉を使ったが、実際に「烏」が愚かなのかどーかは知らない。むしろ驚くほど知的な話ならよく聞くが。
私が実際に経験した烏ならぬ「雀合の衆」の話。
あるとき近道をしようと車で畑だか田んぼだかの中の一本道を走っていた。
すると前方の路上で雀の群れが何かをついばんでいるのに出くわしたのである。籾殻でも落ちていたのかもしれない。
双方向の擦れ違いもできるかどうかという狭い道幅で、雀も道路一杯に広がっているので除けるわけにもいかなかった。
というか、相手は「鳥」である。当然、車が来たら除けるだろうとそのまま進んだのである。しかし何故か雀たちはギリギリまで飛び立とうとせず、車が突っ込んだときに飛び立つには飛び立ったのだが、とうとう1羽だけフロントにゴン!とぶつかったのである。
その雀がどーなったかは可哀想だが知らない。
それよりも驚くべきことは「鳥」を撥ねてしまったということだ。高速で飛ばしていた訳でもなく、普通、ありえないではないか。
もし車の前方に雀がいたとしても、1,2匹ならまず轢かれることはなかっただろう。雀の神経の反応なら充分に危険を察知して除ける筈だ。轢こうと思っても轢けるものではない。
原因として考察したのは、雀等は集団でいたから、個々の固体としての危険に対する警戒の在り様が変化していたのではないだろうか、ということである。
通常、1羽でいる場合は周囲の危険に対する警戒は100%自己が負わなければならない。しかしながら集団でいる場合は、個体数が多いので、警戒の作業は分散することができる。即ち、危険を察知する方法として、近づいてくる危険物を自分で直接、確認するということ以外に、他の固体が危険に気付いていないかを確認するという「情報の回路」が生じるわけだ。
私が想像するに、この後者の情報の迂回路は諸刃の剣で、他者の気付きで自分の危険が回避されるという利点がある一方、他者のフィルターを介するために、反応速度が落ちる、もしくは、反応すべき危険の識閾値が上がってしまう、情報が内部でフィードバックループする、などという欠点があるのではないかと思うのだ。
つまり「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」というお決まりの文句から言えば、それはこのことを心理的な局面から表現した言葉だろうが、まあ雀の心理?を考えても仕方ない(笑)わけで、そうすると、どうやらこれは情報伝達のシステムの問題ではないかと思えてくるわけだ。
集団としての反応速度が落ちたり、反応の識閾値が上がるということは、集団が行動的「慣性」を持つということをよく説明するように思う。
即ち、一旦動き出したものは止まりにくく(動慣性)、止まっているものはいつまでも止まっていようとする(静止慣性)。
このことは「不二家」の事件でも、長い間、多くの就業者が違反を承知で業務していたらしいことにも当てはまる。即ち、他者が危険と判断しないことは危険と判断されにくいのだ。そういうことが常態化しているうちに、反応の閾値はどんどん高くなり(麻痺)、負のループを形成する。その閾値を越える信号が来たときには即ち「カタストロフ」を向かえるということで、手遅れになることを意味する。
動物の世界ではよく社会性を確立した集団であれば、例えばチンパンジーの群れなどでは、他の者が食事をしている間は専門に見張りを行うような固体がいるようだ。企業でいえば検査専門の「品質保証部門」がそれであろう。「不二家」ではここがしっかりしていなかったために、必然的に安全性に対する負の回路が構成されるようになったのではないだろうか。
- http://horirium.blog7.fc2.com/tb.php/146-7b7b87be
0件のトラックバック
「食品の安全管理」の不祥事が次から次に出て来ていますが、
新しいシステムを活用して「食の安全」に取り組み始めている会社が、
業界の一部には、ありますよ。
こちらを・・・。
↓↓↓↓
http://fsr.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_b19c.html
「日本の食品業界で初の試み」ですので、
参考までに、ご覧になられたらと思いました・・・。
内容の説明の為の「動画」は、こちらです。
↓↓↓↓
http://www.youtube.com/watch?v=fa9BwUFMOXo