前回に続いてリスクマネジメントに関する話。
人が危険に対して適切に対応できないことを説明するときによく引き合いに出されるものに「ゆでガエルの理論」とか「ゆでガエル現象」と言われるものがある。
即ち、カエルをいきなり熱いお湯に入れると、必死になって逃げ出そうとするが、最初に水に入れてから、ゆっくり水を沸かしていくと、温度の変化に気がつかず、危険な領域に入ったときには既に体力が無くなって逃げ出すことができなくなり、死んでしまうというヤツ。
もちろん、生物学的にこれが真実なことかどうかは知らないし、やれ都市伝説だ、と目くじら立てる向きもあるが、ビジネスなどで、タイムリーに状況の変化に対応しなければいけない、ということを諭す例えとしてはよく出来ているとも言える。
この現象をあながち笑えないのは、私が実際にカエルに関する似たような状況を経験しているからだ。(この前はスズメで今回はカエルかい!)と言っても、カエルを実際に鍋で煮たわけではない(笑)。
以前、田んぼの直ぐ近くに住んでいたことがあるのだ。その住宅は小さな駐車場を挟んですぐ前が田んぼだった。ここにはカエルがたくさん生息していて、よく、やかましいぐらいに鳴いたりしていた。
それが、雨が降ると、よろこんで?たくさん地上に上がってくるのね(笑)。住宅の階段やら壁にたくさんくっつくので踏まないように注意しなければならなかった。
で、ある日、住宅の壁に干からびたカエルが何匹もくっついていることに気付いたのだ。
どういう理由かは知らないが、とにかく雨が降ってそこら辺が濡れると、カエルたちは地上に上がってくる。やがて、天気になって乾いてくれば、水のある田んぼに戻ればいいはずだ。もちろん、その過程で、方向を失ったりして死んでしまう個体も多いだろう。しかしながら、壁に貼り付いたまま死んでしまうというのは一体どういうことだろう?何も退避しようとした痕跡がないのが不思議である。
つまり、生物学的になんらかの説明が付くのかも知れないけれど、個人の経験からいうと、「ゆでガエル」と同様の現象はあって、現に不思議だが何もしないで干からびてしまう固体がいるのだ。
さて、本題に戻ると、このことは現状に対応できない「愚かさ」を戒める警句として取り沙汰されるわけだが、どうも「愚か」だからよく気をつけて現状を認識せよ、というような精神論ではカバーできない問題であることに気が付いた。
最近たまに日本テレビ系列の「世界一受けたい授業」を見るのだが、ここで脳科学者の「
茂木健一郎」氏がプレゼンするコンテンツに「aha!(アハ)ムービー」というのがある。10秒ほどの間に、画面に提示された写真が、どこか一部が改変された別の写真にゆっくりと置き換わっていくものだが、ほんとに、どこが変化したのか分からなかったりするのである。
しかも前もって「変化する」と知っていて、注意を凝らして見ているのに分からないのだ。
つまりこれは「ゆでガエル」の警句のように、「周りを取り巻く環境は常に変化しているということを、人はついつい忘れ勝ちになる・・・」から気が付かないのではなく、そのことを捉えようと集中していてさえも、変化の度合いが識閾値以下であれば、気が付こうにも気が付けないということを意味している。
このことをよく示す具体的な例として、広い田んぼ道の交差点での自動車の衝突事故が挙げられる。
一見なんの障害物もない見晴らしのよい田んぼ道の交差点で自動車同士が衝突するという事故がよく起こるということをJAFだかの記事で読んだことがある。
実に不思議なことに運転手は両者ともに相手に気が付かなかったという。なぜか?
つまりこういうことだ。二つの自動車がお互いに交差点に向かってほぼ等速で進行する場合、お互いは常に左右どちらかの45度の角度に位置することになる。つまり視覚的には、見かけ上、動きがなく、だんだん大きくなる、というような映像が構成されるわけだ。
これって、全く「アハムービー」と同じじゃないか。つまりこの事故は単純に「不注意」では済ませられない問題を孕んでいることになる。
では、実際にこのアハムービーの変化に気が付くためにはどうすればよいか。より「注意して見なさい」ということでは解決しない。即ち、例えば、画面を4分割して、今回のトライでは右上を、次回には左上を・・・というようなシステム的な対応が必用となる。
そしてこれを、実際の社会やビジネス等の場面に置き換えれば、「次回のトライ」が許されるかどうかは別の話となってくる。なので、例えば、常に「異なった視点」から注意する複数の担当者、センサー、観察方法等が必要となってくる、というようなことが考えられるだろう。
さて、「地球温暖化」の問題に関して言えば、産業革命以来、吐き出されつづけてきた二酸化炭素の量をたしかに長い間、誰も気に留めなかった。しかし、年間の平均気温、異常気象等の変化の数値はすでに鈍感な人間の識閾値をも越えている。つまり、既に我々人間はこのことについて気が付いているといっていい。もう「ゆでガエル」の部分は過ぎてしまったのだ。「次回のトライ」などないことは言うまでも無い。
それでも尚、迅速に適切な対策が採られていないとすれば、それは前回書いた「雀合の衆」マターの方に入っているからだろう。
「不都合な真実」を認めようとする識閾値は残念ながらとんでもなく高いのだ。
我々は巨大な鍋に浸かった無数のカエルだったのだ。
※参照
『見通しの良い交差点における出会い頭事故対策効果に関する実地研究』
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