昭和30年代には300件ものブリキのおもちゃをつくる町工場があったそうです。それが今や、職人さんも数が減って10人に満たないとか。
このままブリキ玩具製作の技術は途絶えてしまうのでしょうか。衰退の原因のひとつがSTマーク(玩具の安全基準)で、ブリキで手を切りやすいということで敬遠された、というのも皮肉な話です。
そんな数少ない職人のお一人が、宮澤真治さん。1972年より、ブリキのおもちゃの設計・製作にたずさわり、これまで数多くのブリキのおもちゃを世に送り出してこられました。現在は、埼玉県の春日部(かすかべ)市に、「ロボットアートスタジオ」を設立し、精力的に活動されています。
ロボットアートスタジオメタルハウス(ご兄弟の会社)
「写真集 おもちゃの匠/リイド社」(現・株式会社タカラトミー前会長が手がけたブリキ玩具の写真集)
ブリキのおもちゃと言えば膨大なコレクションで有名なのが北原照久氏。
宮澤さんが北原氏と組んで執筆されたのが「動くロボットをつくろう!シリーズ」(理論社)。

北原氏のコレクションの有名どころを工作してつくろう、というもの・・・小学生対象に平易な文章で書かれているのですが・・・中身は高度すぎて、私などとても作れそうもありません。
まず最初は必ず方眼紙に図面を書くところからはじめる(!)のですが、多少図面を書いてきたはずの私が見ても理解困難です。

また、材料はつまようじ、串、割り箸など身近なものと、加工しやすいスチレンボード(スーパーの惣菜などのトレーの材質)を使うのですが、これだけ精巧なものを「つまようじであける」って・・・えーと・・・。

スチレンボードはボンドなどでは溶けやすいため、セロテープで貼り付けることになっています。ギヤボックスをすべて輪ゴムを使ったプーリーに置き換えるのですが、これだけ複雑なものを脆弱なスチレンボードとつまようじ、割り箸、消しゴムなどで作るのは逆にハードルが高くなっているような気が(笑)。

4巻目では1900年代初頭から中期にかけてアメリカで製作された広告用のディスプレー「モーションディスプレー」を制作することに・・・もう、ロボットじゃないし!
特に3巻、4巻目は、全てモーター仕掛けで、テレビロボットなどちゃんとテレビ部分も写るようにするので半端ではありません。
個人的に感じたのは、作る前に全体の動作原理などの設計構想が分かりにくいこと、より高度な材料(プラ板とかピアノ線とかネジなど)を使わせた方が却って簡単ではないか、と思いました。私も小学生のころ真空管ラジオなどを組み立てた記憶があるのですが、ドリルや半田ごてなど普通に使っていましたし・・・そもそもこの図面が理解できるレベルの子ならつまようじや割り箸では物足りないだろうと思います。
まあ、「四の五の言ってねえで、言われたとおり作りやがれ、てんでぃ!」という職人気質が聞こえるようでもありますが(笑)。
玩具会社の職人さんから聞きました。昔は新人として先輩に付くと、ずっと先輩の仕事を黙って見ているように言われたそうです。そのうち、先輩が「あれ!」と声をかけるようになる。「あれ!」と言うのは「あの道具を持ってこい!」という意味です。「あれ!」と言われたときに、先輩が必要としている道具を、間違わずさっと差し出せるかどうかで、仕事が分かってきたかどうか判断された、ということです。
さて、「モーションディスプレー」ですが、カリフォルニアのベリンジャー・スタジオで作られたほとんどのものは北原氏が所有しており、「箱根トイミュージアム」で見られるようです。
北原コレクション随分前ですが、横浜でこれらを見る機会があり、あまりのすばらしさに感激しました。思わず、高価な写真集を買ったほどです。

現在、この路線を継承しているからくり作家としては日本人の「ムットーニ」氏が有名です。
ムットーニ オフィシャル ウェブサイト
コメントの投稿