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卒展・雑感

上野の都立美術館に卒展を観にいく。
まずはコインロッカーの確保が大変。他の展覧会も催されているので、休日はお客さんが多いのだ。待つこと10分、ようやく空いたロッカーに荷物を入れるが、財布に100円玉が入ってなかった!己の段取りの悪さを呪う。
偶然そばに同じ境遇のおばさんがいたので、声をかけたら、私が留守番をしている間に両替してきてくれるということになり、ピンチを回避。やれやれ。

さて、最近は上野では「五美術大学連合卒業制作展」の方は、デザインの展示をやらないんだね。これは非常に残念。デザイン系は原宿やら六本木あたりで各大学のデザイン系の学科ごとにばらばらに催されているようである。
 いや、残念だ。期間も場所も違うので観に行ってられまへん。デザイン系だけで、どこかでまとまってやってほしい。切に望む。

なので、デザイン系があったのは東京芸大だけでした。まあ、ファインアートや工芸ももちろん好きなので、いつも楽しめるんだが・・・やはりデザインも観たいなあ。

さて、絵画は専門ではないけれど、数年前から油絵などに明らかに「デジカメ」の影響が見て取れるようになった。

つまり人物や風景をデジカメで撮って、ソフトでフィルター処理したものを油絵に落とし込んだような作品。それが悪いと言うのではない・・・というか、絵を描くのに写真を撮ることは普通に行われてきたことなので、そこから先、効果を付けるところまでをデジタルにまかせてしまうと、どーなのか、というと私には正直よく分からない・・・

去年は卒展を見逃したので、その前になるが、そのときにはかなりストレートにそういう手法が分かる作品が散見された。今年あたりは露骨なものは少なくなってきたようだ。重ねて言うと、そういう作品も嫌いではないのです。

数年前にモネの睡蓮の絵を美術館で観たときに、「これはデジカメだ!」と思った。縦横数mの大きな絵で、独特の荒い筆使いなのに、離れて眺めると恐ろしいほどの写実画なのだ。
つまり、脳内のフィルターを通して画像処理された風景を、筆の幅をピクセルとして出力した絵画なのである。
もちろん、デジカメなどあろうはずもない時代に独自のフィルターを介して外界のイメージを変換していたわけで、まさに天才の天才たる所以に恐れ入ったものだ。

まあ、しかしながら、今の時代、どうしても様々な効果で変換された画像イメージが物心ついたころから身の回りにあふれ返っているわけで、モネと比較するのも酷な話。デジタルによって組替えられたイメージの影響をアナログの絵画が受けないわけがない。

むしろ版画などでは写真を利用することなども積極的に行われてきたことなので、版画と油(あるいは日本画)との中間のような表現があっても不思議ではないし。
 
 さて、今や、イラストはもちろんのこと、油絵的な表現でもパソコンで自在にできるようになった。今後ますます若い作家はファインアートの意義に対して独自に折り合いをつけていかなければならなくなる。即ち、「絵」って「イメージのデータ」なの?「物」として存在しなければアート足りえないのか?とか・・・。

 例えば工業ではあたり前のNCによる切削。企業御用達の「会長の銅像」なんてのでは、もうデータから造るのは普通にやっているんだろうけど、前衛ではなくて、ファインアートの彫刻でもパソコンの中でデータを作ってNCで石を削る、なんてこともそのうち出てくるんだろうね。

s01.jpg芸大の彫刻の展示風景
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4件のコメント

[C23]

モネの「睡蓮」は、そのころすでにほとんど目が見えなくなっていて
実際あのように見えてたまんまを描いてたそうだよ。
モネは「見えたまんまを描く」のが心情の絵描きで、若い頃の絵を見るとそれがよーくわかる。
だから、目がほとんど見えないなら、その「見えないなりの見えたまんま」を直接描いちゃうところが面白いとオイラは思うんでした。

[C24]

モネが見たままを描いたってことはもちろん、そうなんです。実物を観たときに初めてそれを実感できた。

モネや写実画について詳しいわけではないので、極めていい加減な雑感の追加ですが・・・モネは「睡蓮」を30年間に渡って描き続けていて、白内障で失明に近かったのは晩年かと思う。(睡蓮を描き続けるために手術も受けている。)自分の観たのがいつのころのどの作品か、覚えてないけれど、要はその「見たまま」のそのキャンバスへの「変換」の仕方に感動したのです。

 それまでは小さな本の写真でしか観たことがなかった・・・ところが実際にその大きな作品を目の当たりにすると、自分のそれまで持っていたイメージとは全然違った。つまり、10m離れて写実に見える絵を10m離れたところから長い手を伸ばして描いたわけじゃない、ってことを言いたいわけです。(モネの睡蓮も大きさは小さいものもあるのかもしれないけど)
通常、細密リアリズムのような「見たまま」を描く画家の作品ではあまり大きなものはないと思う。見たままの画質を指先でコントロールしようとすると、どうしてもコントロール可能な画面との距離や大きさに限界が出てくるからね。
 大きくて数mも離れたところから観て、ようやく「睡蓮」の写実性を実感できたときに、(実際にはモネはキャンバスのそばでそれを荒いタッチ(画素)に変換して描いているわけだから)まるで低画素のデジタル写真を引き伸ばしたように感じたのです。つまり敢えて言うなら「観る人」がそれなりの距離で見たときに初めて、モネが「見えた」ように見えるように描いた、ということです。

実際にモネのこの天才的な作業はまだ人間の「視覚」として理解できるんだけど、デジタルのソフトで付加される効果は人の感覚的な実感とはかけ離れていることもあるわけで、それ故、面白いわけだけど、それをそのまま油で表現するってのも何か芸がないというか・・・いや、面白いからいいのか・・・なんか、どう受けとめていいのか分からなくなります。
  • 2006-02-26
  • ホリック
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[C26] お絵描き教室の先生をやったとき・・

以前、小学生が通うお絵描き教室でちょっとだけ教えたことがあったのですが、今回の記事と通じるところがありました。
生徒さんの一人に、
デジカメで撮影しプリンタで引き伸ばした写真を机に置き、それを見ながら絵を描く子がいたのです。
少女がじっくり見ていたのは花瓶に入った花の『写真』 でした。

なんか、ショックでした。

花の美しさは実物をみて、活き活きした花びらと、透明な水と対話しながら紙に落とし込んでいくものだと思うのですよね~。
少なからず、私が小さい頃はそうやって花を描いていたのですが。
(花の絵を描くのが大好きだったんです。)

時代によって、描き方は随分かわるものなのだなー。と思いました。
先生の指導法にも違いはあるとは思いますが。。

[C28]

wggさん、こんにちは。

絵を描く行為は対象を感じとって、その感動を絵にする、まさにwggさんが仰る「対話」という行為のうちに本質があると思います。

ノーマン・ロックウェルなど、有名な画家でも、写真に撮ってから絵を起こす人はいますが、それらはすべて自分の技術やスタイルがある程度確立し、あくまでも料理する素材のひとつとして十分コントロールできるからなのだと思います。つまりあくまでも、絵を描くための技術の一つに過ぎません。

写真をそのまま写せば、「模写」以上にはなり得ませんよね。
自分の目で見ることによって、構図はもちろん、自分の一番描きたいところ、背景のボケ具合、色の見え方など、様々な要素にいろいろな可能性が広がるわけですね。
 
子どものうちならとりわけ、自分の目で実際に見ることの可能性を狭めてほしくないと思います。
 
  • 2006-03-09
  • ホリック
  • URL
  • 編集

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