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地デジの功罪? 映画の本質と映画館の終焉?


前回、デジタル薄型テレビの画質がすごいな、ってことを書いた。

で、そこから他にも予想外のあることに気がついた。

何かというと・・・もう少しで画面の中に入れるんじゃないか、ってことだ・・・・「貞子か、おのれは!」と突っ込みが入りそうだけど(笑)。


私は映画館で映画を見るのが好きだ。もちろんDVDも借りたりするけれど、やはり映画は大画面で見るべきだと思う。なぜなら、時々、映画の中にダイブしてしまうような感覚が得られるからだ。

ま、これは、共感してくれる人もいれば、?の人もいるだろう。

そもそも映画の本質とは何か?というと、いろいろ意見があるだろうけど、一言でいうとSFでいうところの「センスオブワンダー」だと自分では思っている。

そこに在るはずのないものがそこにあって動いている。非現実の別世界がそこで展開されている。それを様々な視点から見て、その世界と繋がり、あたかも現実であるかのように共体験する。つまるところ、「目玉のびっくり体験」なのだ。(そういう意味ではこのところの3D流行りなんて実に正統派の展開だと思う。)


映画の草創期、人々は皆、これにびっくりし、感動したのだと思う。ドラマ性がどうの、カメラのカットがどうの、芸術性がどうの、モンタージュ理論が・・・それらは次第に映像が芸術として認知されるようになり、後から付け足された技術論にすぎない。

ベルギーのジョゼフ・プラトーが1833年に考案した「フェナキスティスコープ(Phenakistiscope)」の呼びを「驚き盤」と命名したのは「古川タク」であったが、はじめて映画を見た人たちはみな同様に驚いたのである。

フェナキストスコープ


かつて映画が「活動代写真」と呼ばれていたころ、活動弁士はこんな口上を述べた。

「文明開化はエレキ応用、ついに写真が活動をば、開始したのであります!」

なんとも、動くことそれ自体が驚きであった様子が伝わってくる。

こんな感覚はそれほど大昔だけのものではない。かつて私の叔父が語っていた。映画館で『帰らざる河』を見たときの話だ。ロバート・ミッチャムとマリリン・モンローが競演したこの映画は、タイトル通り、激流を筏で下るシーンがひとつのクライマックスとなっている。。

映画館で、観客は皆、河の水を避けようとして身を捩ったと言うのだ。1954年公開というから戦後もそろそろ10年が経とうとする時期。もちろん、この映画は3Dなどではない。シネラマや70mmという超大画面の映画が上映されるようになったのはもう少し後のはずだから、これはさほど大きな画面での映画ではないと思う。(シネラマは35mmx3本分の映写だとか)

それでも、「水がかかるかと思った。」と叔父は言った。やはり意識が映画の世界に捕らわれていたんだと思う。実際に今見ると、河と筏の合成なんかもオソマツなものなのだけれど・・・。







ましてや視界を全て埋め尽くすような大画面の映画館は、それこそ映画の中に入り込むのには最適だろう。今は残念ながら昔のような大きな映画館はほぼ無くなった。シネコンなどは予想以上に小さな画面でがっかりすることも多い。「試写室かいっ!」って突っ込みを入れたくなることだってある。

それでも私はあわよくば映画の中に取り込まれる体験をしたいために、スクリーンが視野をほぼ占めるように、前の方に座ることが多い。

で、私が印象に残っているのは押井守の『イノセンス』。といってもIMAX版ではなく、「よみうりホール」という小さな会場で上映されたごく普通の映画だ。「攻殻機動隊」が好きだったこともあり、私はオープニングから画面に引き込まれた。すばらしい立体感というか臨場感があったことを覚えている。特に、なぜかバトーがコンビニでハックされるシーンが印象に残っている。このとき、私の目はバトーの目となって、コンビニの棚の商品を見ていた。手を伸ばせば商品に触れられるような臨場感があった。私は映画の中に浸っていた。つまり、この感覚には実写かアニメかということは関係ないってことだ。

興味深いのはこの後のこと。実はこの映画、試写会で見たんだけれど、たまたま一週間後の試写会も当たっていたので、もう一度その感動を味わいたくて、再び出かけたのだ。場所は同じくよみうりホール、座席もほぼ同じ場所。

ところが、ところが・・・本当に同じ映画を観ているのかと驚いた。画面が、全く平淡に見えるのだ。1週間前の臨場感は消え失せ、映画の中に入ることはついぞ無かった。

これはこういうことだと思う。つまり、知らない場所へ行ったときと同じだ。はじめての道を往復すると、往きの方が帰りよりも長く感じることが多い。これは知らない場所だということで、脳が目印などを覚えようとして、活発に活動し、脳のクロック数を上げるからだと思う。(だから不動産屋は客に物件を見せるときに、駅から遠いという印象を与えないために、必ず車で送るんだとか。)こども時代の方が歳を取ってからよりも1年が長く感じるのも同じような理由だろう。

つまり期待してワクワクしながら観ると、一瞬も見逃すまい、と脳が活発になり、臨場感が上がるのだと思う。それに比べて2回目のときには、展開がどうなるか、どんな映像が流れるか、既に知っているわけだから脳もさぼっていたに違いない。

私が作り込まれたリアルな宇宙空間が出てくる映画で、このような没入感覚を味わうことが多いのも、自分がSF映画が好きだからだろう。昔の人々にとっては奇抜な映像体験や娯楽そのものが少なかったので、みなワクワクしながら映画を観たに違いない。そして観る度にこのような没入感覚を味わっていたのでは、と思う。


私が映画は映画館で観なくては!と思うのは一重にこの感覚に浸りたいからだった。(没我我入できたからと言って、その映画が映像ドラマとしてすばらしいかというと、、それはまた別の話。実際、私は『イノセンス』に不満な点が多々ある。ただ、私の場合は作劇の細かい技術論よりも非現実な世界へ「ダイブ」出来るかどうかという方が重要であり、それが映画のそもそもの本質ではないか、と思っている)

さて、「だった」と過去形なのは、この昨今のデジタルテレビの高画質化、大画面化により、映像へのダイブ感覚という部分が、家庭のテレビでも得られそうに思えてきた、からだ。

20年ほど前に民生用ハイビジョンテレビが作られた当初から、画面の画質の良さをアピールするために水槽で熱帯魚を飼っている映像を流すというようなことが行われてきた。つまり、本物と区別が付かないほどの高画質で実際の水槽の代わりになるぐらいですよ、と。

最近では窓に嵌め込んで外の景色を映すというようなまさにSF的な使い方をしている映像なんかも少なくない。前回のエントリで写真を撮ったように、実際にそこに本物があるのと遜色のないレベルまで画質は上がってきている。まさに空気感まで表現されるかのようだ。

実際に少し前に映画館で観た映画が地デジで放送されているのを見ると、細部の高精細感がすごくて、映画館で見たときよりも臨場感を覚えてしまうほどだ。我が家の大きくないテレビでさえそうなのだから、より大きくて高画質なテレビが普及し、また立体音響のスピーカーなどがもっと一般化すればそれこそ「ホームシアター」なんて各部屋ごとのものになるだろう。

もはや家にある古いDVDの再生機ではテレビの画質の良さを活かしきれない。もうすぐ、VHSがDVDに取って代わられたように、DVDもBDなどにその座を明け渡すだろう。

3D だなんだという流れもあるし、驚くべき速度で大画面のテレビは低価格化し、高画質なBDやHDD録画機が普及しつつある。さてさて、そうなったら・・・もう本当に私でも映画館に足を運ぶ理由が見つからなくなりそうだ。かつてのシネラマのような超大画面の映画館があれば行ってみたいという思うけれど、巨大設備は非効率だし、どこにでも設置できるというものではないだろう。

テレビの高画質化ということから思いもかけず、「映画館」という業態が近い将来、加速度的に先細りになるのでは、と感じてしまった。






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